昭和51年04月24日 朝の御理解



 御理解 第74節
 「かわいいと思う心が神心じゃ。」

 お道の信心はいよいよこの神心を目指して、信心修行をさして頂く事です。その神心と言うのは、可愛いと思う、言わば助けずにはおかんと言う心だと思うですね。近藤藤守と言う先生が月々御本部へお参りになる、その道中道すがらでカスミ網を持って沢山のすずめを一網打尽にあの、取っておる有様を見られて「あぁ可哀想な事をするもんだ」と思うて御本部へ着かれて、その事を教祖様にお話申し上げると、教祖様が「その可愛いと思う心が神心じゃ」と仰ったと。
 その時にこれはこの御理解は、御裁伝があった御教えだと聞いております。ですからその、すずめですら可哀想だなぁと、その思う心が神心ですから、これが世の中の言うなら難儀な氏子、本当にその難儀な氏子が、まぁほんとに神様が悲しい思いで人間、難儀な氏子をご覧になっておられるであろう、その難儀な氏子が、助かる手立てをさして頂く。これは可愛いと思う心が神心と言うのが募ってきたら、私はそう言う事に必ずなってくると思うですね。
 自分の周囲を眺めてみる時にもほんとに、それこそ欲悪煩悩に浮身をやつしておる、ほんとに先の事は何にも知らん分らない。そしてほんとう人間の幸せと言う事には、とうとう辿り着かずに、頂かずしてこの世を終っていくと言う様な人達が沢山ある。そう言う人達の事を思うたら、この可愛いと思う心がフルにこう湧いてくる。とってもそういうその難儀な氏子の助かる事の手立てを、何とかしておかげを頂きたい。助かって貰いたい。そこで私は生まれてくるのが信心の真だと思う。
 だから信心の真と言うのは、私そのまま神心に通ずると思うです。私今朝からそう言う事をしきりに思わせて頂きよったら、もう何か知らんけれどももう限りない力が湧いて来るものを覚えた。そこでその限りない人が助かっていくと言う事の為の手立てとして、いよいよ信心の真を現していかなければならないが、例えば教団全体が、信心の真をいよいよ現して行こうと言う様な働きになってきたら。
 まず必要なのは人材又は財、財の力。その為にはいよいよ本当に神心の強い、世の中に沢山な難儀な人達がある、その人達をもう助けずにはおかん救わずにはおかんと言う神心を使える人達の、が沢山育つと言う事である。昨日竹内先生がこう、月例祭が終りましてから、あの近所の方をお導きして来とります。それで応接間で色々とお話を聞いたり、させて頂いたりしております時に、先日あのう日本の教会で一番在籍教師が多い所は泉尾だそうです。大阪の泉尾教会26人だそうです。
 その2番目が合楽教会の25人だと言う事をこっちは知らん。取り合えずよそもんのほうが知っとる。だから「来年なちがわん日本一になりますよ」と言う訳です。今年また5人の教師が出けるとすると、確かに来年は日本一になるだろうと思います。そのそうね例えばそう言う人達が育っていくと言う事が、ただ先生がでけさえすりゃよいというのではなくて、もう本当に神心の強い例えばすずめですらもね、一網打尽に取られてしまいよるのを可哀想だなぁ思う心が神心と仰るのです。
 世の中にはもう沢山なそれこそすずめ所じゃない、万物の霊長と言われる人間氏子がですね、人間の面しとるだけで霊長と言うだけであって、霊徳も何も失ってしまって、我情我欲の為に、それこそ欲悪煩悩のために一生を終って、それこそ沢山な人間氏子がまた仏教的に言うならば、地獄の底に落ちて行かなければならない人達が、沢山中にあると言う事を思う時です、これを何とかして救わなければ、助けなければおかんと言う人達が、まず育たなければならない。
 同時にそう言う例えば教団が本当に働きが出ける様になったらです、合楽教会で沢山な、例えば私の事を神様が大黒様の徳と言うて下さるですからね、それこそ何億のお金でもです合楽教会にどんどん頂いて、それをそういう助かる事の為にそれはどんどん献納させて頂けるような、おかげを頂きたいと今日思うたら、もう元気が出て来て元気が出て来て、どんこんされんような感じがするんです。だから問題は教団全体がですそういう神心の塊となってです。世の中の難儀な氏子が言うならば取次ぎ助けられて行く。
 しかも大量に。もう本当に目も当てられん様な悲しい事で、一生を終って行く人達があまりにも多いです。それを救い助けれる力を持っておるものは、私は金光教以外にはない。これはまぁ私の自負ですけれどもね、だからそういう教団が働き、そういうところにいるような人が、社会の難儀にと言うてただ言うてるだけではなくてです。本当にそういう力が出け、教団がそういう向きに変えられた時にです、お役に立たせて頂かなければならんのは私だと。
 何故って私お金の事で済むならばす、もうどれだけでも神様が私に下さろうと言うのだからね。何億の献金でも言うならばお供えでも出来る様なおかげを頂かしてもらう。それは夢の様な事ですけれども、それが私の言うならば今の神心ですから。何か知らんけれどももう限りない何か力が湧いて来る様な気がするです。でこの頃からいろいろ頂くその大黒様の徳と言った様な事について、いろいろお知らせを頂いとる事がございましたので、あれを思いこれを思いして。
 これはもういよいよですね、お金がいるときには合楽教会に言いさえすりゃ、なんぼでも合楽教会から献納が出てるんだと、言う様なおかげを頂かなきゃならん、と私は思わせて頂いたら今日のこの74節でしたから、あんまり関り合いがないごとあるけれども。私は可愛いと思う心が神心じゃという、この御理解が出た所がですねそ、れこそ何百羽ともうしれない沢山のすずめが、一網打尽にとられる姿を見て、近藤藤守先生が「まぁ可愛そうな事をする人達があるもんだ」と思われた。
 それを教祖様にお話になられたら、教祖様が御神前に出られて御栽傳があった「その可愛いと思う心が神心じゃ」と仰った。だからすずめですらもそのような沢山、あの神心と言うておられるのですから、沢山な人間氏子が助かっていく事のために。言うならこれからの生涯を懸けようと。その為には人材がいる。それこそ合楽で限りない言うなら神心の強い人達が育っていって、そのお役に立たなければならない。その時にまず何と言うても、手駒がまわなければならん。先立つものはお金だと。
 そのお金は私は限りなく打ち出の小槌のお徳を頂いて、限りなく打ち出して、世の難儀な人達が助かっていく事の為に、生涯を願いをそこに懸けようと、今朝からそんな思いを御祈念しながらしきりに祈り、そして思わせて頂いておったら。もう限りない何か力がこう与えられたような気が致しました。ですから私が神心と言う事は、信心の真をいよいよどのような形で現そうかという願いを立てる事だと思うです。それは夢のようなね、例えば大きな事さえ言うとけばよいと言う事じゃないです。
 例えばなら現在一億近くの浄財が合楽に集まります。だから夢ではないでしょうが。何億の金でもです言うならば献納さして頂ける。しかもそれがいよいよ難儀な氏子が取次ぎ助けられる事の為に、間違いなく御用に立たせて頂くと言う事になるならばです、よしお金の事なら合楽がと言う様な、おかげを頂かしてもらわにゃならんなと。そう思うただけで心がそれこそワクワクするような思いが致します。信心の真をどう言う形によって現そうかと、その現そうと言うその心をですね。
 ただ声掛けだけではなくて、本当にそれを思わないけんです。おかげを頂く為に一心不乱になる。それは自分の事に一心不乱になるのであるから大した事はない。けれども自分以外の事、言うならば世の中の沢山な難儀な氏子が助けられる事の為にです、私の信心が行使される。私のもっておる財がお使い頂けれる。私の持っておる力がその事に行使されるようなおかげを頂かして頂こうというその心が、私は神心だと思う。
 またそれが現された時に、いよいよ信心の真が現されたと言う事になると思う。だから折角おかげ頂くなら小さい事じゃつまらん。折角信心の真を現すならばです、もうつう一杯の私は現し方を工夫さして貰うて、そしてそれを神様に願って行くと言う様な、生き方を一つ身に付けて行きたいと思います。「可愛いと思う心が神心だ」と。いよいよ神心が募りに募ってまいりましたら、その様に世の中に自分の周辺を眺める時に、それがあの世この世を通してこの沢山な人間がです。
 折角この世に生を受けながらです。魂を清める事も知らずに。そのままそれこそもう、それこそ沢山な人達がまた地獄に落ちて行く。逆戻りそしてまた何千年何万年しなければ、この世に生まれ変わってくる事がでけない。その長い間を苦しまなければならないかこの人達がと思うたらです、それを助けずにはおかんと言う心が、私は神心だと思うです。それを現していく事が信心の真を現していく事だと言う風に思います。
   どうぞ。